おばあちゃんis dying

子育て

こんにちわ。こまく妻です。

先日、私たちの住んでいるところから3時間半かけて、私の実家へ行きおばあちゃん(子どもたちにとってはひいおばあちゃん)に会いにいってきました。

いつもは実家に行けば何泊かさせてもらうのですが、今回は急なことでもあったし、おばあちゃんも具合が良くないので日帰りで!ヒョエ〜

帰ってきた翌日はみんな疲れているからと、まーくんは野外保育の保育園をお休みし、仲良しのお隣さんとヴィーガンキムチを仕込みました。

みんなやはり疲れているようで、翌々日もお寝坊。

かえちゃんは鼻水がジュルジュルでています。笑

「まーくん、今日もみんな疲れているし、保育園休もうか?」

と夫が提案してみました。

これは今日もお休みだな〜ま、ゆっくり過ごせばいいか〜なあんて思っていたところ

「まーくん、今日はかまどご飯の日だから行きたい」

との返答が!!!!!

朝ご飯の準備をしながら聞いていた私はびっくり仰天!!

あの、あの、あの、保育園の送りの時、寂しい〜と言って大泣きするまーくんが!!(最近は落ち着いて泣かなくなってきましたが)

入園してから今まで、行きたくないと言う言葉は何度も何度もまーくんの口から耳にしていましたが、行きたいなんて言葉は一度も聞いたことがありませんでした。

そんなまーくんが、親のお休みすると言う提案を断り、自らの意思で保育園に行った。。

ついにこの日が来たんだ〜と本当に感慨深く、まーくんの成長っぷりに感動しました。

おじいちゃんの最期とまーくん

まーくんが生まれて5ヶ月ほど経った頃、私たち家族は実家に一間を借りて生活することに決め、私と夫とまーくんと、3人で私の実家に引っ越しをしました。

私は小さい頃から大学を卒業して家を出る時まで祖父母と一緒に住んでいて、祖父母にはかなりお世話になっていたし、祖父母のことが大好きでした。

でも、祖父母も高齢になり、いつ最後の時を迎えるかわからない。

私も一応看護師として仕事をした経験があるので、祖父母の最後の時を支えたい、その思いと、両親と子どもだけで生活することが当たり前となっているこの現代社会ですが、子どもにとってはいつも同じ家にいて、いつでも会える人たち、いつでも関わってくれる人が両親以外にもいた方がいいとの思いがあったからです。

まーくんは生後5ヶ月の頃から私の実家で、私の祖父母と、両親と、妹と一緒に生活をしてきました。(3歳手前で引っ越しをしますが)

私の両親はまだまだ仕事真っ盛りでほとんど家にいなかったため、いつも暇を持て余している時に遊んでくれたのは私のおじいちゃんとおばあちゃん。

高齢者にとって(誰にとってもそうですが)小さい子どもというのは本当に本当に可愛いようで、それはまあはちゃめちゃに可愛がってくれておりました。

お買い物やお出かけなども、いつも一緒に行って楽しく過ごしていました。

そんな中、まーくんが1歳頃になると、おじいちゃんの具合が急降下。

元々いろいろな病気を持っていたおじいちゃんですが、肝外門脈閉塞症という病気がメインで、この病気がおじいちゃんをちょっとずつ蝕んでいったわけです。

家で最期を迎えたい、延命治療はしたくないと言っていたおじいちゃん。

まーくんも、おじいちゃんがどんどん弱っていく姿を見ていました。

家での生活が苦しくなり、一度症状を緩和のため輸血する目的で入院。

1週間で退院しますが、退院したその日の夜。

おじいちゃんは自宅で、親族・家族みんなに見守られるなか、息を引き取りました。

まーくんがおじいちゃんのことを覚えているかわかりません。

きっと記憶にはないのでしょうが、まーくんもおじいちゃんの最後を支えてくれた一人であることは間違いなく。

おじいちゃんは自宅に帰ってきて、体がしんどそうではありましたが、それでもまーくんに向かって笑顔で手を振って、それまでしていたのと同じようにおーいと言っていたのです。

産まれること、死んでいくことが生活から切り離されてしまったこの世の中で、おじいちゃんは可愛いひ孫に送られることができて、まーくんもおじいちゃんが死んでいくところを目の前で見て、体験した。

お互いにとって、すごくいい経験だったなあと感じています。

今度はおばあちゃんの番

おじいちゃんが亡くなって少しして、次男かえちゃんを授かり、そして無事にかえちゃんは生まれてきてくれました。

それからはおばあちゃんが、暇な時はいつもまーくんと遊んでくれました。

実家を離れ引っ越しするということを告げた時は涙を流して寂しがり、引っ越した後も大きな荷物を持って特急電車に乗り3時間以上かけて、何度も何度も遊びに来てくれたものです。

そんなこともあり、まーくんもかえちゃんもおばあちゃんのことが大好き。

時々お休みの日にはテレビ電話をするのですが、おばあちゃんの顔が見えると二人ともパッと明るい顔になって喜びます。

そんなおばあちゃんの様子が変わってきたのが10月ごろ。

土日になると必ずと言っていいほどかかってきていた電話が、10月に入って突然かかってこないようになりました。

なんだか違和感を感じながらも、こちらも忙しく過ごしていたので、時々電話をする程度。

11月になると、おばあちゃんは長く続く下痢により調子が悪く食べ物が食べられない、体重が30キロ台まで落ちていると母から教えてもらいます。

ほう、これは、おばあちゃんが弱ってきている。

食べられないということは、もしかしたらこのまま最後の時を迎えるかも。

などと思っていましたが、幸い下痢は治まり、ご飯も自分で作って食べられるほどになるまで回復しました。

ところがそんな日は長くは続かないのです。

私の妹はまだ実家にいるのですが、彼女の自転車がパンクしているのが気になったおばあちゃん。

妹の自転車に乗って、自転車屋さんに修理をお願いしに行きます。

自転車を預け、代わりに自転車屋さんの自転車を借りて一度家に帰り、そしてまた自転車屋さんに向かっている時。

転んでしまったんですね〜。

そして右半身を打ち、痛みを抱えることに。

すぐ病院に行ってレントゲンをとりますが、その時は骨は折れていないとのことで帰宅。

しかしあまりに痛そうにしているので、もう一度受診したらどうかと私が勧め、整形外科を受診。

すると肋骨を骨折、肘にはヒビが入っていたことがわかりました。

骨が折れている&ひびが入っていることがわかり、おばあちゃんは一気に意気消沈。

本当に、気力を失ったように、元気がなくなってしまいました。

そのうちに、いつもしているテレビ電話ができないという出来事があり、話している内容が伝わりにくかったり、認知機能の低下も感じたため、まーくんとかえちゃんのことがわからなくなる前に!と、急遽会いに行ってきたわけです。

おばあちゃんは思っていたより衰弱していて、ご飯もほとんど食べられず、日常生活を送ることも困難な様子でした。

それでも二人の可愛いひ孫が遠いところから会いにきてくれたこと、本当に嬉しそうにしていました。

これが最後かもしれないと思い、おばあちゃんには少し頑張ってもらって、おじいちゃんが生きている時によく一緒に行った思い出のお店にご飯を食べに行ったりもしました。

おばあちゃんは体が辛くて大変そうでしたが、でも楽しそうで、ギリギリ動けるうちに会えて、よかったなと心から感じました。

まーくんとかえちゃんも、新しいおもちゃを買ってもらい、大事に遊んでいます。

生きること 死ぬこと

生き物は生きている限り必ず死にます。

おばあちゃんの最期はきっともうじき。

でも、死ぬということは、当たり前のことです。

私は、おばあちゃんに会えなくなること、話ができなくなること、子どもたちの成長を見てもらえなくなることはとても悲しいことだとは思いますが、でもだからと言っておばあちゃんにずっと死なないでいてほしいとは思いません。

むしろ、こうして歳を重ねてきて、おじいちゃんが亡くなったあとから食べる量が減って少しずつ痩せて、最近の下痢だとか骨折のようようにちょっとした不調の積み重ねで、少しずつ、少しずつ弱ってきて、そして死を迎えるということ、おばあちゃんはおじいちゃんのように内臓に大きな病気もないので、その流れが生き物として本当に自然なことであるように感じます。

今私たちは一緒に住んでいないので、おばあちゃんのことを直接支えることはできませんが、ケアマネと連絡をとり、両親と今後のことを考えてもらうように調整をしました。

もしかしたら、次にまた会えるかどうかわからない。

まーくんもかえちゃんも、大好きなおばあちゃんが人生の最期に向かっていることなど、まだわからないとは思います。

でも、明らかに細々と痩せて、体も動かなくなったおばあちゃんを見ています。

まーくんは4歳になって、物事の理解が随分できるようになりました。

おばあちゃんの死と直面した時、直面しそうな時、どのように関わることが良いのか、私も夫もよく考えないといけないなと思っています。

毎日毎日が大変だとおばあちゃんは様子を見にきてくれた隣人に話していましたが、どうかどうか、少しでも楽に、安らかにその時を迎えられますようにと祈っています。

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